ヘア・メイク・着付のプロフェッショナル
【記念日スタイリスト®】
写真撮影ディレクションなどの知識や多方面からの視点をもつ
「記念日の専門家」
プライベートでは小6女子と小4男子の母。
神社めぐりと猫が好き
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本日(3/12)夫が退院となりました。
8/5の軽い脳梗塞の入院から数えて7ヶ月と1週間。長い入院生活を終えて、これからは自宅での生活が始まります。
8/11の夜に脳内出血を起こし(左右被殻出血)で右半身麻痺になりましたが、現在は4点の杖で歩行できるまで回復しました。
リハビリ病棟に転院してからは、お医者様や看護師さん、理学療法士さん、作業療法士さん、言語聴覚士さんのおかげで、みるみる回復しており病棟スタッフさんたちも驚いているそうです。
夫の友人が車で迎えに来てくれたので、お願いして谷津保険病院に寄ってもらいました。
ちょうどお世話になった先生もいらしてお話できたり、リハビリ担当のスタッフさん達にも会えました。
一番お世話になった看護師さんが見当たらなくて、会えないかな〜と思ってたら…
車に乗る直前に、お昼休憩から戻ってきた看護師さんとバッタリ!会えてよかった〜(^^)病棟から外来に移動になったそうで、タイミング良く会えてラッキーでした。
そして、軽い昼食を取ってから帰宅。
2月にソーシャルワーカーさん、理学療法士さん、作業療法士さん達と一緒に夫が一時帰宅しまして、自宅で使う福祉用具の確認をしました。
お風呂のスノコ、入浴台、バスボード、トイレの手すりや嵩上げ便座、介護ベッドが必要という話になり、後日スノコのサイズを測りに群馬からメーカーさんが来たのには驚きました。
ちょうどその前に友人が使わなくなったお風呂用介護椅子や滑り止めマットを譲ってくれた事もあり、なるべくそれを使う方向で話をしましたが、病院のスタッフや福祉用具の会社の方は「安全」を第一基準とするためなかなか意見が合わず…(笑)
介護保険は基本的にお年寄りの介護を前提としているので、とにかく危なくないように安全な状態で使えるかどうかを考えています。
お風呂なども基本は「見守り」の状態で1人で入浴出来るように、入浴台やバスボードなど段差をなくした状態になるようなアイテムを使います。
…なんですが。
過去に脳梗塞の母と生活してた私からすると、「意外と出来るじゃん」ということが多く、至れり尽くせりの介護用品があるよりは多少不便なくらいの方がリハビリになっていいんじゃない?という鬼嫁的発想もあり、まずは介護ベッドは使わず、家に今あるものを活用する事にしました。
夏に夫が入院したのを機にマットがヘタってた13年もののダブルベッドを処分し、シングルベッドを買いました。
ところが、安いから…で飛びついたらなんと二段ベッドの上部分でして(^◇^;)左右に柵が付いてたんですね〜。
まぁ「私はまたげるからいいか」と思って買ったんですが、よくよく考えたらそれを退院してきた夫に使わせるのには少々無理があり…かといって介護ベッドを入れたらこのベッドは部屋に置けないし、処分するのはまだ勿体無いし…と思って、柵を一部切ってみました(^^)
頭の方の隙間がある部分が不安定なので、切った柵を調節してみたら…
ピッタリ(*≧∀≦*)
うーん♡私って天才!って1人で夜中にもりあがってました(笑)
そして翌日にホームセンターで固定用の金具を買って取り付けたのがこちら
体重をかけてもビクともしません(笑)
今日、福祉用具会社の方に見せたら「まさかここまでやるとは思いませんでした」と驚かれて(^^;)
実際、退院した夫に使ってみてもらったらバッチリ!という意見だったので、これで介護ベッドは無しで大丈夫そう。
結局、福祉用具はトイレの手すりとかさ上げ便座だけ手配しました。
お風呂はまたちょっと工夫してみます。
肺ガンを患った父は、しばらくすると少しづつ身の回りの事を整理し始めました。
うちの父は自営業でブロック積んだり、カーポートやベランダ作ったり、いわゆるエクステリアの仕事をしていて。
そのおかげで私は幼稚園の頃から休みの日に父の現場について行って、セメント捏ねたり、ブロック塀の目地切りしてました。(←コレってかなりスゴイ事らしいw)
千葉県の印旛沼近くに資材置場用の土地を持っていて、そこにトラックや発電機、ブロックやセメントなど仕事に必要なものが一式置いてあり、それをしまうトタン屋根の掘っ建て小屋は父が自分で建てたもの。
子供の頃はそこで遊ぶのがすきだったな〜!セメントの材料で砂を大量にストックしてあるので、私からしたらそれはもうマイ砂場!!1人で黙々と遊んでました。←さすが1人っ子。誰もいなくても独りで遊べます。
いらない廃材を燃やして焼き芋したり、春にはゼンマイやワラビを母と一緒に摘んでみたり、竹やぶもあったのでタケノコも取れてた気がする!
ローラースケート持って行って、1人で印旛沼公園まで行って滑ってりしたっけな〜。…今思うと怖いけど(^^;)
入退院を繰り返していた父は、さすがにもう体力仕事は出来ないし、土地を売ろうと思ってた頃に、ちょうど土地を探している人と出会ったらしく、すんなり売れて喜んでました。そのあと「こんな機会は滅多にないから」って帯のかかった札束も見せてもらいました(笑)
私は母がなんとか工面してくれたお金で東京・代々木の美容専門学校に通っていて、1学期が終わる事にクラスメイトから紹介されたメイクスクールにも週一で放課後に通ってました。
そのメイクスクールは生徒を口コミでしか取らないというこだわりの先生で技術レベルも高く、基本のコースが終わる頃に上級者コースに通うかどうか迷ってた時。
授業で使うスタインという海外のメイク道具を揃えなくてはならないんですが、それが当時16万くらいして、親に反対されて諦める人も多かった様なのですが、うちの父は「それがお前の仕事に必要ならば買え。仕事をする上で道具は必ず必要になる」と言って、購入してくれました。
多分、父も自営で道具が無いと仕事が出来ないので無理して購入する事も多かったからなんだろうなぁと思います。
あと、18歳の春から教習所にも通わせてくれて、夏ごろには軽自動車も買ってくれました。私の友人からのおさがりの中古車ですけど。
その頃は父も再就職をして、体力をあまり使わない警備の仕事をしてたので、そこそこ収入もあったみたいです。
相変わらず母は泊まり込みで仕事してたので、家には私と父と祖母で生活してました。
もともと私は父が大好きで小さな頃から父にばっからくっついてたみたいです。
流石に中学生くらいの頃は多少の反抗期もありましたが、それでも大して逆らうこともせず、仲のいい親子だったと思います。
専門学校を卒業して、美容師になった一番最初のお給料を渡した時、父から手紙をもらいました。
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♪永遠を〜夢見ていた〜♪あの日を〜今〜♪って、また歌いますけど(笑)ほんと歌詞の通り、永遠に続くと思ってたんですよ。平和な時間って。
※親の介護の事をブログにしたためてます。
母が病院に問い合わせした数日後、先生に話を聞くために泊まりの仕事から帰ってきました。そして病院で言われた事を改めて私に話をしてくれました。
…結論は…
肺にカビが生える真菌症(しんきんしょう)。それと一緒にガン細胞も見つかったという話。
「今すぐって訳じゃないけど…とりあえず、覚悟だけはしておこうね」そう母に言われて、呆然とうなづくしかなかった17歳の私でした。
父には言わないという事で母と合意をし、それからはお見舞いに行っても悟られないように、明るく振舞ってました。
…もしかしたら…どんなに辛くてもそれを表に出さず、相手に悟られないように笑顔で明るく振る舞うクセはこの時に身についたのかもしれない…( ̄▽ ̄;)
それでも高校2年生の娘が、学校帰りに毎日のように病院にお見舞いに来るので、看護師さん達に「仲良いですね〜」なんて言われてました。
当時、父は65歳だったので、ハタから見ると孫とおじいちゃんに見えたのか「え?娘さん??」なんて驚かれたりもして(^^;)
それでもやはり、抗がん剤の点滴とコバルト照射(放射線治療)が始まると、頭髪が抜け嘔吐に苦しむ父の姿を見る事が出来ず、父も弱ってる姿を私に見せたくなかったのか、しばらく落ち着くまで母にもお見舞いを止められてました。
この頃は、父が亡くなってしまうんじゃないか…そうしたら母と私はどうしたらいいんだろうか…17歳の自分に何かできる事はあるんだろうか…と漠然とした不安を抱えていたように思います。でも高校生の自分に出来ることなんて何もなくて…自分の無力さが歯がゆかったですね。
あ〜…そうか…「私は役に立たないと存在する意味がない」って決めたのはこの頃なのかもね…(^◇^;)
半年ほどすると父は退院して家に戻ってきましたが、完全復活というわけでもなく、家で療養してました。あまり体調もすぐれず、数ヶ月にはまた短期の入院をしたりして、私はずっとハラハラしてたかな…。
気がつくと私も高校3年生になっていて、自分の進路を考えなければいけない頃。
私は小学生の頃から「美容師になる」と言っていて、くるくるドライヤー全盛期にあえてそれを使わずロールブラシとしょぼいドライヤーで形を作っていたり、母の白髪染めをやってお小遣いをもらっていたり、美容院で見よう見まねで覚えたブローをお出かけ前の母の頭にやったりと、とにかく美容師になる事ばかりを考えてました。(一度、服飾に進もうかと考えた時もあったけど…w)
専門学校に進むのに当然お金はかかるわけで、実際のところ本当にそこに進めるのかという不安もぬぐい切れず。
母と県庁まで出かけて奨学金の事も調べたけど、一年制の専門学校には出ないとか、大学しか対応してないとか。
友達は「別に行きたい所とかないんだけどさ〜、とりあえず親がお金だしてくれるっていうし、適当に専門でも行っとこうかなぁ〜」なんて言ってるのに、「私は行きたい所があるのにお金が無いから行けないの??」って悔し泣きをしたら、母が「お金はなんとかするからアンタは行きたい所に行きなさい」って言ってくれて。
もうね、同級生はうらやましいを通り越して、ムカつきました(-_-;)
自分が恵まれた環境にいることにすら気がつかず、甘えたこと言ってる人とか、文句ばっかり言ってる人とかね。
そうやって周りと自分の違いをまざまざと見せつけられ、大変な状況を乗り越えるために少しづつ強くなっていく。
でもそれを続けて行くと、色んなモノを抱え込んで行くことが当たり前になるんですよね。
友達に話しても理解されない。経験していない人にはこの辛さは分からない。
そんなことを積み重ねていくことで精神的にも大人びていき、誰かに頼るということより自分で何とかしていくことを選んでしまう。
この頃からだんだんそうやって生きてきたんだな〜
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23歳の時に末期ガンの父(当時71歳)を、35歳の時には認知症の母(当時78歳)を、そして今現在は夫(51歳)の介護(入院中)の経験をブログにしたためることにしました。
1)愛しさと切なさと…
2)愛しさと切なさと(2)…
介護についての感想やご意見など、コメントまたはレターポットでいただけると嬉しいです(^^)
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♪遠い〜空をあの日〜眺めていた〜♪やりかけの〜青春も〜♪経験も〜そのままで〜♪
いきなり歌うなよって感じですが(笑)いや、まさにこの歌詞そのまんま。やりかけの青春って感じで、私の波瀾万丈な人生の始まりは高校2年生の春に突然やってきました。
1年生の春に私が交通事故で右膝骨折して、翌年は父が咳が止まらないので検査入院する事になり「我が家は4月になんかあるのかね〜?」なんて言ってたんですが、まぁその数日後に電話がかかってきたんです病院から。
当時母は付き添い家政婦と言って、今で言うヘルパーさんみたいな仕事をして病院に泊まり込みで仕事をしてました。(家族の代わりに患者さんのお世話をする仕事があったんです)
はい。この時点で既に普通の家庭ではない様子が伺えますね(笑)
うちは父が自営業で、ブロック積んだりカーポート作ったりするいわゆるエクステリア(外構)の仕事をしていたのですが、やはり自営は収入に差があるため、割と母は私が小さい頃から働いてました。
昔はマネキンと言ってスーパーなどで食品の試食の仕事をしていましたが、私が中学2年生くらいから付き添い家政婦の仕事を始めて、病院の泊まり込みで20日間くらい帰ってこない事が多かったんです。
で、家にいた祖母が病院からの電話を受け、たまたま私が公衆電話から帰宅の連絡をした時に「病院から電話があって、家族の人に話したい事があるんだって」と言われました。
祖母は当時80歳で、ご飯の支度とかはしてくれたんですが、細かいことは分からないから…と言われ、私が病院に電話する事に。
母が仕事で不在なので代わりに電話したと伝えると、電話の向こうで先生が「娘さん…いくつ?」と聞くので「17です」と答えると、「うーん…17歳かぁ…。うーん…お母さんの方がいいなぁ…。お母さんと連絡取れる??」というではありませんか。
一旦は電話を切ったけど、「家族に話がある。本人には言わない。17歳の娘には話せない。」それはつまり…???と悶々としながら帰宅します。
当時は携帯なんて無い頃ですし、母が泊まり込みをしている病院に電話して、自宅にかけてくれるように伝言を頼みます。
しばらくして母から電話がかかかってきたので一通り事情を説明して「分かった。病院へ連絡してみるから」というは母の言葉を聞いた途端、こらえていた想いが口から溢れてきて「お父さん死んじゃったらどうしよう!!」と電話口で泣きました。
私、小さい頃から父が大好きで、やたらと父に引っ付いてたり、母よりも父と話すことの方が多かったんです。(まぁ、中学生の頃は流石に敬遠してた時もありましたけど)だから、父が死んじゃうかもしれないって事がとても怖くて…。
だけど母は受話器の向こうで「大丈夫よ。とりあえず病院に連絡してみるから」といって電話を切りました。
その時に、母って動じないんだなぁ…って感心したのを覚えてます。
ちなみにうちの母のは昭和6年生まれで、戦争経験者です。小石川に住んでいたので、空襲を避けて新潟に疎開したと言ってました。父は大正15年で北海道出身ですが、海軍の予科練に入ったので横須賀にいたそうです。戦争があと数日延びてたら出撃してたかも…なんてよく話してました。
まあ、そんな経験してたら多少のことじゃ動じませんよね(笑)
私は父が47歳、母が42歳の時に生まれました。今でこそ40代の出産は珍しくないけど、45年前はものすごく珍しく、30歳でマル高(高齢出産)って言われてた時代です。結婚自体も遅かったけど、8年間子供ができなかったみたいです。(1人目はかなり初期の流産をしたとは聞いてましたが…)。そんな高齢の両親のものとに産まれた一人っ子の私は小さい頃は人見知りでおっとりしててぼ〜っとしててドンくさかったらしいです。
23歳の時に末期ガンの父(当時71歳)を、35歳の時には認知症の母(当時78歳)を、そして今現在は夫(51歳)の介護(入院中)の経験をブログにしたためることにしました。
介護についての感想やご意見など、コメントまたはレターポットでいただけると嬉しいです(^^)
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このタイトルを聞いて「心強さと」って答えたあなたは、篠原涼子ファン?小室哲哉ファン?はたまたストツー(ストリートファイター2)のファン?(笑)
なんてことはさておき、2018年も始まってまもなく1ヶ月になります。
私も10日ほど前に誕生日を迎えまして45歳になりました(笑)私的に年齢を公開する事になんの抵抗もないんですが、90歳まで現役を目指す私としては、折り返し地点に来た感じです。
そんな私の誕生日から数日後に、小室哲哉氏の引退会見。思わずテレビに向かって「うそー!!」と叫んでしまいました(^^;)
特に小室ファンではないのですが、やはりTKブームの恩恵は受けてた世代なので…(笑)しかもね〜…KEIKOが高次脳機能障害と聞きましてね、他人事ではないなぁ…と。
うちの夫も8月に軽い脳梗塞→左右被殻出血(いわゆる脳出血)を起こしまして、半身麻痺になりましたので、高次脳機能障害も併発しているわけでして…(^^;)
現在は入院中なのでこれといってまだ大変さは体感しておりませんが(あ、入院費はものすごい事になってまして、そっちは大変ですよ〜〜( ̄◇ ̄;))
KEIKOさんは身体の障害は出なかったそうなので、余計に辛いだろうなぁ…と。見た目は普通なのに会話がままならないってパートナーとしてはかなり辛いと思うんですよね…(−_−;)
不倫云々を肯定するつもりはないですが、小室さんが1人で抱えるには辛すぎる介護の現状があるなぁとしみじみ感じました。
私も23歳の時に末期ガンの父(当時71歳)を、35歳の時には認知症の母(当時78歳)を、そして今現在は夫(51歳)の介護(入院中)の経験があるので、身内の介護の辛さは体験済みでございます。
父の時は約5年の闘病生活を経て、一度は社会復帰したものの、最終的に自宅介護を1ヶ月おこなって旅立ちました。しかも葬儀屋さん無しで葬儀をするというレアな経験をしております。
母に関しては、父が亡くなった3年後に脳梗塞で倒れ、母1人子1人の状態で働きながら介護をしてたんですね〜。当時はまだ介護保険が始まってなくて、色々と大変でした。
先日夫の介護認定が出たので、ケアマネージャーを決めるのに、船橋の福祉業界で知らない人はいない某施設のスタッフ〇〇さんに相談した際、「そうまさん、その年齢でそれだけの介護経験があるってかなり貴重だと思う。その体験談をどこかで話したらいいんじゃない?」と言われまして…(^^;)
私にとってはもうネタでしかない波瀾万丈な人生をまずはブログにでも書いてみようかと思って、ここに記す事にしました(笑)
相当長い文章になるので(笑)小出しにしていきます。
気が向いた時と時間がある時にしか書けないので、気長にしたためてみますね〜〜(^^;)